三河本宮山を登りだしたのは30代後半だったと思います。
その頃は、高所登山のトレーニングとして
下の鳥居から奥社の鳥居まで40分切を目標にしていました。
自分の体が強い内の本宮山はトレーニング場でした。
50代に入り山スキーで左膝前十字靭帯断裂。
そのリハビリで本宮山を何回も登りました。
初めは絶対に転ばない様に一歩一歩慎重な登下降からのスタートでした。
初めて奥社まで登れた時は涙が出そうに嬉しかったです。
ゆっくりでも呼吸と体を斜面に合わせる様にしました。
この頃から
奥社に着くと自然に
「今日もここまで登れました。ありがとうございます」
と言葉が出る様になって来たと思います。
場を提供して頂き、自分が動ける事が嬉しかったです。
60代に入り
左膝の変形性膝関節症の骨切り術手術
肺癌で右肺上葉切除
胆石で胆嚢切除
と続きました。
そのリハビリでも本宮山を何回も登りました。
手術前は決して走らずリズム重視の歩きで
時計を見なくても歩いて60±1分程度で登れていましたが
どう頑張っても75分は掛かってしまいます。
やっぱり元には戻りません。
(世間一般のコースタイムは90分です)
それでも
奥社に着くと自然に
「今日もここまで登れました。ありがとうございます」
と自然に感謝の言葉が出て来ます。
誰に向かって感謝しているのでしょうか?
私は
本宮山の神様が直接的念力の様な物で私の体を直せるとは思っていませんが
この「場」にの「縁」のエネルギーが有ると思います。
参道が出来、石段が出来、人が来て、木々が育ち、景色に心が和み
この場の「縁」に自身に持つ「縁」が有れば繋がり「縁」の力で何かが動く
これが世の中の仕組みの様に思います。
「ありがとう」と言う言葉は
「有る」事が「難い」事が今ここで起こった事に対する感謝の言葉なんです。
その人の心に自然に湧いて来る真実なんです。
○○経典や○○聖典より、もっと自然で存在感のある真実なんです。
60代後半に入り
四国歩き遍路1340kmの旅でもお寺毎に
「今日もここまで歩けました。ありがとうございます」
と自然に感謝の言葉が出て来ました。
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