お遍路しながら各お寺で納経をしました。
私は本堂で普通の作法に従い普通に漢文の般若心経を唱え
大師堂では現代語訳の般若心経を音読しました。
一応、説明本も読みましたが最後までリズムの悪く理解も「今一歩、???」でした。
「空」ってなんだ???
でも周りの方の中には、リズミカルに一心不乱に納経する方も多くいらっしゃいました。
どうも私とは格が全く違う感じです。
他のお遍路さん達は何を思って今を過ごしているのか不思議に思う事が有ります。
ここに来れる人達は
食べる事に困る様な人は一人も居ない。
恐らく、病院にも行ける人達で
お金が無くて困る様な人も一人も居ない。
ハリーポッターの様に杖を振ったら願いが叶う事?
読経の陶酔の中に身を置き波動を受ける事?
超能力の獲得?
宝くじが当たる様な強運の獲得?
病気が治る事?
死の恐怖・怯えからの解放?
死後、極楽浄土の様な楽園への切符を貰う事?
先の見えない将来へのお告げを効いて迷いから解放されたい?
悪縁を断ち切り良縁を獲得する為?
生きる自信を貰う為?
寂しさを埋める為?
心に開いた空間を満足感で埋める為?
何だろう!
何だろう!
言語も違う多宗教の外人さんも沢山います。
なぜお遍路に人が来る・集まるのだろう。
どうしてだろう!
どうしてだろう!
遍路道を歩く中で私の感じた結論は
「神仏の力は情報だ!」
念力や魔法の世界への期待は薄いです。
異教徒外国人も私がここに来れたのも何らかの情報を知ったからです。
そして
情報が流れに成ると人の流れが出来ます。
流れを作るには整理して広める場も必要です。
その情報は心にクサビ(種)と成って刺さっていきます。
記憶の中に綺麗にクサビを打ち込む為には
何らかの儀式やイベントが必要な場合も在ります。
記憶の中の種が腐らなければ
数年先かもしれませんが、ある時クサビ(種)が「発芽」するのでしょう。
最近の登山の世界は、中高年で登山を始める人が多いですが
何処か「青春の残像」を求めている感じがします。
せっかく発芽しても
「ああせい!こうせい!」
肥料が効き過ぎていては直に成長は出来ません。
また、肥料は少な過ぎても駄目ですよね。
せっかく発芽しても
自力で根を伸ばさないを栄養は吸収出来ないし微生物達と共生も出来ないですよね。
微生物達と共生出来れば次の情報や栄養も入手出来世界が広がります。
改めて上記の項目を見直してみると
それこそ「空」なる代物だ
いざとなったら「どうでも良い」事だらけだ。
死後の世界もそうだ
仏典が正しいかは不明だが、取り合えず信じよう。
そこには
地球人の如来(仏)はお釈迦様だけ
他の如来は地球外(生物?)だそうだ。(または空想世界かな?)
宇宙には如来はガンジス川の砂の粒ほどいらっしゃるそうだ。
それなら
そんなに悟った方(物事を公平に見える方)が居るなら話も早い。
いっそ開き直って考えれば
極楽浄土の様な楽園も沢山有りそうだし、
もうこれ以上死ぬ事は無いし、
自分に合った楽園を見つける旅も楽しそうだし、
キリストさんや阿弥陀様だけに頼らなくても良いじゃないかとも思えてきます。
お遍路の旅や登山はこの旅の練習なんだろうね!
うん!
もっと、積極的に開き直って生きて見よう!!!
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